ななしのはにわの雑記帳

映画やアニメの感想をつらつらと。個人的見解に基づく批判なんかもあるため注意

凶弾の主 【Cyberpunk: Edgerunners 】

どうもどうも、はにわです。
Cyberpunk EdgerunnersのOPはいいぞ、という話
本編のネタバレ込みで語るので要注意!早くみて

Cyberpunk: Edgerunners | Opening Credits | Netflix - YouTube
いやー最高ですよね。
コンテ 五十嵐海 さん
原画 今石洋之 さん
作監 吉成曜 さん
という贅沢な布陣で作られたこのOP、好きすぎて何回再生したことか…

OPを通してデイビッドのシルエットと背景のビル群のシルエットで構成されていて、そのシルエットの中身は
デイビット キャラ中心の場面写真
ビル群 背景美術
となっています。


この場面写真の数々は動画では追いきれませんが、それがいい。この場面写真は副監督の金子祥之さんによるチョイスだそうです。

ただひたすら流すだけでなく、映像にリンクさせて

銃口が向けられたシーンが挿入されていたり、

キャラの横顔が幾重にも重ねられていたりと、
このこだわりがイイ!

デイビッドがただ歩き始めるだけなのですが、それがいい。

ここほんと好き

そしてこのOPは「何者かに頭を撃ち抜かれるデイビッド」で締め括られます。


ここで疑問が一つ。



誰だ…?
初視聴時はファラデーかと思ったけど…本編でデイビッドにトドメを刺したのはアダム・スマッシャーだし…
でも、アダム・スマッシャーには見えないし…




ん…?
こいつ、
シルエットの中、背景美術じゃん!!

ということは、この犯人のカテゴリはビル群とかと同じ…
つまり、こいつの正体は…
ナイトシティそのもの…?


ストーリーを作るにあたってCD PROJEKT側から提示された条件の一つに
「ナイトシティを敵に回した者は絶対に勝てない」
というものがあったそうです。(出典 TRIGGER NIGHTだった気がする…)
こういったことからも、デイビッドを葬った彼はファラデーでも、アダムスマッシャーでもなく、ナイトシティそのものではないか?というのが僕の解釈です。


一人の少年が歩きだし、そして走り始め、街に殺されていく。
これこそがCyberpunk: Edgerunnersである、と改めて考えさせられた最高のOPでした。
こんな素晴らしいOPをありがとうございました。

ではでは。

蛇足

このOPのおかげでで最近Franz Ferdinandの曲を聴く様になりました。
OPで使用されている楽曲のThis fire のMVもカッコよくて好き。
Franz Ferdinand - This Fire (Video) - YouTube
Do You Want To って曲に最近ハマってます。
Franz Ferdinand - Do You Want To (Video) - YouTube
あとはこの辺とか
Franz Ferdinand - The Dark Of The Matinée (Video) - YouTube
もし他にオススメがあれば教えてください。

エヴァンゲリオンに手を出せないあなたへ【ネタバレなし】

エヴァンゲリオン

なんか有名だよね。今度新しい映画が公開されて話題だし。

でも…今から見るにはコンテンツが巨大過ぎるし…

それに伏線がどうとか、設定が緻密とかなんか今更見るのは大変そう…

 

そうお考えのあなたにこそ伝えたい

 

エヴァは万人に開かれた作品である

と。

 

誤解を恐れずに言うならあなたの想像以上に

「気楽に構えてみられる作品」

です

 

前述のところである設定の緻密さ、伏線による作劇のギミック、神話等々を引用したモチーフの巧妙さはエヴァンゲリオンという作品の魅力の一端であり、それだけが本質ではありません。

かわいいキャラクターのデザインであったり

かっこいいエヴァ使徒のデザインであったり、

そこで描かれる人間ドラマ

というのを目的に視聴をしても十二分に楽しめます。

 

エヴァンゲリオンを端的に表すならば

最上級のエンターテイメント

であり、各要素はそのエンタメを構成する一面に過ぎません。どれか1つでもあなたに刺されば楽しめることは間違いないですし、その数が多ければ多いほどあなたに深く突き刺さることでしょう。

 

アニメを見る際に物怖じをする必要はないと考えています。「わかる」ためにアニメを見るのではなく「楽しむ」ためにアニメを見ていたはずです。楽しむことが出来た上で「わかりたい」という欲求がついてくることがたまにあるというだけではないかなーと思います(楽しければ分かる必要がないという選択もあり得る選択なわけで)

 

まずはTVアニメ版の1話でも良いですし、新劇場版:序でも良いし、アニメより漫画かなーって人は漫画版だってあります。

 

まずは一歩踏み出してみてはいかがでしょうか?

 

 

蛇足

どれからみたらいいかわかんないよーという方は

とにかくシンエヴァがみたい→新劇場版:序、破、Q

どっぷりみたい→TVアニメ版・旧劇、新劇場版、どっかのタイミングで漫画版

ってぐらいのを目安にされてはいかがでしょうか。異論は認めます。

 

蛇足の蛇足

見るきっかけは何でも良いと思います。残酷な天使のテーゼ知ってる~だとか、パチスロで打ったことあるだとか、宇多田ヒカルのファンだからとか何でも良いです。

ただ1つ個人的におすすめしないのは「渋々みる」というタイミングです。趣味の活動は能動性を失うとたちまち価値が消失していきます。無理をして見る必要はありません。

見ようかなと思ったとき、その時こそがベストタイミングです。

 

 

BNAのOP考察まとめ 後半戦

どうもどうも、はにわです
では後半戦やってきましょう。
ここからは12話まで見たという前提でネタバレ全開で進めていきます
みんなネトフリで見ようね!

前半戦はこちら(ネタバレはこちらはほぼないです)
BNAのOP考察まとめ 前半戦 - ななしのはにわの雑記帳


では早速いきましょう
2つのシーンをピックアップします

では前半戦の答え合わせから

まずは前半戦の答え合わせ。
1〜5話と6〜11話で変わった部分はズバリココ!

ここが6話以降は…

こうなってると(直撮りですみません…色味が崩れてしまった…)
前半は瞳の中には「ヒトのみちるの後ろ姿」
後半は「銀狼の遠吠え」

基本的に舞台やキャラクターの紹介に主眼が置かれた前半(1〜5話)
銀狼教団・シルヴァスタ製薬編 の後半(6〜12話)
で単純に区切ったと考えるのが無難そうです

以下蛇足
前半と後半でのテーマの違いを一応拙いながらここを考察すると
前半(1〜5話)はみちるの目的は「ヒトに戻る」ことにあります。(5話は微妙)
4話で特に苦労することなく、ヒトに戻れるようになったところで一定の目的は達成されているわけです。しかしそこで畳み掛けるようにヒトの獣人への不理解に直面することでアニマシティにとどまる理由が「獣人を理解する」というものに変質しているんですね。だからこそ12話のラストでみちるが獣人のままアニマシティにとどまるという決断をするというのも合点がいきます。

ちょっと話がそれましたが、「獣人のみちる」の瞳のなかに映っていることを踏まえると、
そこに映るものは「その時のみちる」の未来に目指しているものだと言えそうな気がします
「自分がヒトに戻ることを求める=ヒトの自分の後ろ姿」の前半
「獣人への理解=獣人の象徴である銀狼」の後半
みたいな感じですかね。

それはそうと、12話でこの瞳に映る銀狼を本編でやったのはすごくよかったですね。痺れました。

アランからのびる系統樹


12話でアランが獣人であることがわかりました。まあOPのこのセクションで出てくるあたりからまあ匂わせてはいたわけですね。
そこだけでここの場面を語り終えるのではもったいないのでもう少しこの背景の系統樹に着目してみましょう

作中での純血種の定義は今ひとつわかりかねますが、12話でアランが純血種の説明をする際にも系統樹のような図が用いられます。
その際、幹から一度枝分かれしたものが一本に束ねられた物が純血種といった描写がなされています。おそらくここ12話での樹は種族ごとの枝分かれというより、狼?の獣性の個人個人の枝分かれといった意味合いでしょう。なのでどちらかというと系統樹というよりも家系図ならぬ家系樹といったところでしょうか。

ここでOPに話を戻します。これを前提とするとOPのアラン視点だとこの背景の系統樹だと考えていた物が実は家系樹だったと言えるわけです。
だからアラン「から」伸びていたのではなく、アラン「へ」伸びていたんですね。

OPからまた脱線しますがシルヴァスタ製薬のマークそのものが樹であり、本編中のアランの登場シーンでは背景美術の窓や壁の装飾に「樹」が織り込まれている事もすごく演出として上手いです。

この「樹」のモチーフはアランにだけ特徴的なのかといえば実はこれが違います。
士郎の事務所のでかい窓。B-COOPの2階です。ここにも「樹」のモチーフが織り込まれています。
士郎の場合は同胞たちの血となるわけですが、士郎とアランの共通点をこんなところに仕込んでくるのは本当に心憎いです。
十中八九これは製作サイドが狙ってやっています。
スターターブックにB -COOPの外観とイメージボードと決定稿が掲載されていますが、これ決定稿で追加されているディティールなんですね。
確認して欲しいので、
みんなスターターブックを買おう!!
「BNA ビー・エヌ・エー」公式スターターガイドブック: 作品一覧/TOHO animation STORE | 東宝アニメーションストア

終わりに

脱線しまくる、読み難い、説明不足の三拍子が揃ってしまった当記事を読んでくださり有難うございました。
できれば皆さんの感想なんかも聞いて見たいですね。コメント等もらえるとすごく嬉しいです
とにかくBNAはすごく満足のいく作品でした。個人的には5話がすごく好みです。
今後のTRIGGER作品にも期待ですね。
ではでは

※シルバスタ→シルヴァスタ に表記を改めました

BNAのOP考察まとめ 前半戦

基本的にTwitterに流したもの


のママです
6話まで解禁時にかいたのでネタバレはほぼないはずです。
ただ、是非新鮮な気持ちのままあの映像に触れてください!ネトフリで見れます。
アフィではないのでNetflixへの誘導などはないですが、正直1ヶ月分くらいは安いものだと思います
参考にしたノンクレOPは以下です

TVアニメ『BNA ビー・エヌ・エー』ノンクレジットオープニング映像 / 『Ready to』影森みちる(CV:諸星すみれ
https://youtu.be/3Okzra8Anr4

では以下コピペ





まずはこの冒頭の音ハメ。これしかないというタイミングで気持ちよく絵が切り替わります
YouTubeのノンクレ動画から切り出したものを載せていますが、是非本編のクレジットありで見てほしいです。冒頭はクレジットが画面を構成する重要なパーツとなってます。(くるくる回る中島さんの名前が好き)

しかもここで出されるモチーフは
タイトルがもじったであろうDNA、遺伝子に関連するものです
❶DNAの二重螺旋構造
塩基配列
❸進化の歴史を表す円形の系統樹
これらをここまでグラフィカルにテンポ良く出されて気持ち良すぎるわけです。
以下は一般的な円形系統樹
引用元 https://i-zukan.jp/columns/126


しかも、この円形系統樹を眼の虹彩とリンクさせて絵をつなげ、その眼もリアルな動物のタヌキから、瞬きの瞬間みちるの眼に切り替わるというこの一連の流れ。たまらないわけです。みちるに切り替わって眼を完全に見開いて少し緩むというこの芝居もすごく細かいが、リアリティの向上に二役ぐらいかっています


そして、そのみちるの瞳にはヒトの姿のみちるの「後ろ姿」が映るというネタを仕込んでいると。単に「ヒトに戻る」ことを追いかけ、ているとも取れますが、もしかすると何かの伏線かもしれません。うーんにくいですね。)
↑ここら辺は考察まとめ②でします


初回視聴時にスゲーとなったのはこのカット。獣性とヒトの部分の二面性を建物の影で切り替えるって言うおしゃれなカット。一切狂いが無くてすごい(僕自身素人ですがきっとすごい)



直前の士郎のカットを踏襲したカット。何よりマリー伊丹で曲に合わせて覗き込むモーションが追加されているのが気持ちいい
またここでも背景に系統樹が使われていて、上から下にPANされているが、この根がラストのアランに繋がって見えるのがまた憎い。「諸悪の根源」的な何かかと想像させる



色味でここまでかわって見えるのもまたいい。一瞬しか映らないのにこれでキャラを語れるというのはすごい。あと単にかわいい


走るし、カメラは回すしでスピード感マックスのカット。みちるの気持ちで走ってますみたいな走り方いいよね。ここでも「変身」をスムーズにやってて良い。

滅茶苦茶ざっくりスロー編集ですが、これでわかるように街の灯りが横切る時にうまく切り替わってるんですね。YouTubeに公開されてゆっくり見るまでは気づきませんでした。特にみちるがシルエットに切り替わるところ。自然にやってるけど、きちっと靴も脱がせるリアリティも共存させていて素晴らしい


完全にシルエットになって、荒々しい集中線と同化してピカッと光る。先ほどのカットとは転じて背景が空色になっていて、しかもピカッと光る。夜明けとか、希望の光を連想させて爽快感抜群。
総括すると何しろ切り替えとかカット繋ぎがヌルッとしていてすごくいいOP。

以上、コピペ終わり

12話まで見終わったので次でストーリーを踏まえつつ今度は考察を深めようと思います
次回に続く!

追記

1〜5話までのOPと6話以降では一部映像が差し代わってます。お気付きでないかたは是非探してみてください
答え合わせも次回で!
これだからネトフリのOP飛ばす機能はクソ

甘い?プロメアにおける差別描写

どうもどうも、はにわです。

今回は公開から「じみーに」議論を起こしている映画プロメアの差別描写についてまとめていきたいと思います。

劇場公開から上映が100日間突破など、劇場オリジナルアニメの中では絶大な反響の本作ですが、差別への描写に関してはなかなかに評価が分かれています。というか、ここに関しては賛否両論の「否」の声の方が大きいまであります。

ここについての私見をつらつらと。

※以下には初っ端から激烈なネタバレを含みます。未見の方は是非そのまま劇場へ見にいってください。



賛否の否とは??

この「否」の意見なんかを見たければ、
「プロメア 差別」
Twitterで検索すれば、そこそこ出てきます。

で、彼らの主張を端的にまとめると
「散々バーニッシュへの「差別」を描いたくせに、その解決をバーニッシュとプロメアの切り離し、すなわちバーニッシュというアイデンティティの喪失によって解決している。差別していた人間側の償いもなければ成長もない」
といったものになるように思われます。(この分析についての批判は甘んじて受け入れます)

私見

結論から言うと、僕の中での答えは上記のものとは異なります。
映画プロメアでは
『バーニッシュへの差別は解決していない』
これが僕の賛否の「否」への反論です。

バーニッシュ差別が未解決であることは、ラストシーンにおけるガロがリオに向けた「炎上したら消してやる」という台詞からも明らかです。大衆のバーニッシュへの差別というのは未だ残っていることを承知でした上でそれも全部背負い込むというガロの覚悟と贖罪があの台詞に詰まっているんですね。

ではなぜ、あの映画を見終わった後に「バーニッシュ差別問題は解決した」といった錯覚を起こしてしまうのでしょうか?(かくいう僕も初回はそんな錯覚に陥りました)

それはガロに変化があったからです

プロメアという映画は、「世界大炎上」であったり、「人類の救世主」であったり、「一惑星完全燃焼」であったり、とにかく扱うスケールがインフレーションしてくる映画です。(制作スタジオや製作陣の十八番なので…)ところがそんなスケールが2時間に収まるはずもないので、映画の中では
「ガロ・リオ・クレイ」の3人のミクロな関係性の中で物語が進行していきます。
せいぜい「世界」や「大衆」といったマクロなモノが顔をのぞかせるのはアバンとピザ屋のシーンぐらいのものです。

そしてその3人のミクロな関係を通して、世界や星といったマクロな規模の話を見ていくため、ガロの成長=社会の成長・更生と錯覚してしまうのです。というか、僕はそうでした。
ですから、差別に対する社会の償いや更生というのはエンドロール後の世界で成されるべきことなので、作中で描かれていなくても良い、というのが僕の考えです。

蛇足

ガロが放つ「バーニッシュも飯を食うんだな」という発言。
こちらの方が個人的には引っ掛かりを覚えました。(1回目の視聴時)
主人公であるガロが、さっきピザ屋でフリーズフォースと争ったガロが、この手の差別的な発言をし、リオに「僕たちも人間なんだぞ」とブチ切れられて即座に考えを改め、バーニッシュを守るために奔走し挙句独房にまでぶち込まれるわけです。
映画全体を通して、この「バーニッシュは飯を食うんだな」という差別的な発言がすごく浮いているような気がしてなりませんでした。
特に「ピザ屋でのバルカンとの言い争い」というこの「バーニッシュ飯発言」以前のイベントとの整合性が取れない。これが一番のモヤモヤポイント。


ただ、いざじっくり見るとそんなに破綻していない。というのが僕の結論です。
今一度あの表彰式後からのシーンを思い出して頂きたい。

バーニングレスキューの面々がピザを食べながら、
「バーニッシュは元は普通の人の突然変異、テロリストのせいで全部が悪く見られてしまう」
といった趣旨の会話を店主とします。
でも、この時ガロは特に会話に参加してないんですね。多分、勲章をもらったことに浮かれて話を聞いてません。「火があれば俺が消してやる」と市民に啖呵を切るばかりです。
きわめつけはフリーズフォースへの抗議です。よくよく会話を聞けば、ガロの主張は「親父さんまで逮捕することはないだろ」というものに終始していて、決してバーニッシュの青年を守るために立ち上がったわけではないのです。ですからガロもバーニッシュへの差別の感情を持つ人物として描かれているといっても過言ではないと言えるでしょう。ガロの生い立ちを考えれば、バーニッシュに対して大なり小なり憎しみを抱くというのはある意味人として当然ではあります。救われたことにおもきを置き、復讐ではなく、人を救いたいという気持ちをメインの生きる理由にできたガロはやはりすごい人物なのですが。

ではなぜ、リオからの一言で心変わりできたのか。

それは、バーニッシュも彼の救うべき「人」であることに気づいたからです。
ガロは火消しであると同時に「レスキュー隊員」です。そして彼を劇中一貫して支えるのは「人を救いたいという燃える火消し魂」
です。
そんな彼はリオに言われるあの瞬間までバーニッシュを「人」だと思っても見なかったのではないでしょうか。僕らが異国のテロリストに抱く、得体の知れない危ないやつ、そんな認識。だからこそリオのことを名前で呼ぶことはなく、「放火魔野郎」「マッドバーニッシュの親玉」などと呼び、あのシーンを境にリオの名前を呼ぶわけです。
上記のように考えると一貫したガロというキャラクター、その中で起こった転換に説明がつくような気がします。何より、壊れた独房から炎龍を見たときの「リオ…?」でめちゃくちゃ熱くなれます。

蛇足の蛇足

正直、アクション映画なので頭空っぽにして見た方がいいのはいいと思います。この記事が意義を失いますが…

蛇足の方が長くなりましたが、ここまで読んでくださった方がいらっしゃれば、お付き合い頂きありがとうございました。読みにくくて申し訳ありません。

そのうち、舞台装置としてのピザ屋について記事にできたらなーと思ってます

ほんの少し追記(2020/08/05)

最近またこの手の話が再燃していたので、思ったことを追記。
やはりあのラストに懸念を持つ方が多いようです。バーニッシュの尊厳を認めバーニッシュはバーニッシュのままで共生を図るエンドの方がよかったのではないか?と言った具合に。確かにそちらの方が差別の解消、是正というテーマから見れば綺麗なまとまりと言えるのでしょうが、やっぱり今の形で良いと僕は考えます。
確かに人間のサイドから考えればその方が纏りがいいのでしょうが、そもそも「プロメア」自体は外来の生命体であり、彼らの立場から言えば元の次元に帰れるなら帰るという方が自然の摂理なわけですね。ですからあのエンドはあの世界の自然の摂理に正直に従ったということで十分世界観としての筋が通せていると考えています。プロメアくんもおうち帰りたいでしょうし。

個人的には作品を見るときにキャラクターに関しては思想はこうあるべきとか、こう動くべき、成長するべきとか考えながらみるのですが、その世界のギミックや現象に関してはそういうものとしてみることにしています

むしろあの尺で中途半端でそれらしい差別の解決を描かなかったのは英断だったのかと思います。差別の解消を描かなかったことで、どのようにあの世界が折り合いをつけるのか、そこに想像の余地を残したのが作品の醍醐味だと思います。(あの世界のその後は相当暗いでしょうし…クレイはもちろんエリスもただじゃ済まないでしょうし…前述の通りバーニッシュへの差別も残るでしょう。そういう意味でもあのタイミングで作品を終わらせることは一つの最適解だと思います)

制作側としてもアクションムービーとして作りながらそれだけで終わらせたくないからこそ、一つの側面として差別の悲痛な描写を盛り込み民衆を通して世界を現実と地続きのものと見せました。差別がある現状・それが発生しうる素地があることを十分に視聴者に突きつけることができれば十分だと考えたのでしょう。「差別はこのようにして解消すべきだ!」ということを伝える映画ではなく、「差別は驚くほど卑近で簡単にそれらしい理由で正当化されてしまう」という現実の問題を描くことに振り切ったのでしょう。

肩入れしすぎですかね…


ではでは。

第一回 天気の子 初見を終えて

どうもどうも、はにわです。

初回の記事は話題の「天気の子」の初回上映に行ってきたのでその感想をつらつらと。

以下には激烈なネタバレ・かなりの批判を含むので、未見の方・作品の熱烈なファンで批判を耳に入れたくない方はここでブラウザバックを。というか未見の方は興味さえあれば一度くらい目を通せば良いと思います。

※筆者は通常上映視聴一回、パンフレット斜め読み、程度の知識のためフリークの方に言わせると至らない考察が散見されるでしょうが、初回の生の感想を残すことも本記事の目的であるので、ご理解の上で以下に進んでください。指摘は大歓迎です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずは簡単に全体の感想を

「アニメーションとして面白いし、音楽による演出も期待通りでよかったな」

というのが率直な感想です。大絶賛とはなりませんでしたが(これは自身の趣味が新海誠路線にないからかもしれません)、かなり良くできていると感じました。

ただ、上映中何度か首を傾げたくなるシーンはたくさんあり、こういったシーンが原因で「面白くなかった・分からなかった」という感想を持つ人がいるのは必然だろうなとも思います。ではその感じた違和感を少し考えてみます。

①帆高を中心に登場人物へ感情移入ができない

何でそんなに帰りたくないのか?

銃をぶっ放す

唐突な「晴れて欲しい」発言

銃をぶっ放す(2回目)

天候を変えてしまうことの罪悪感への葛藤が足りない

ざっとあげても、このぐらい。時々のぞかせる「なぜ?」のせいで作品への没入感が薄くなってしまっているのです。もしかすると、筆者の気づかなかった仕掛けで反論はつくかもしれません。が、私は違和感を感じました。特に帆高の一番の行動原理である「家に帰りたくない」という部分に説明がないことは大きく感情移入を障害します

 

②成長をしない帆高

本作品で徹底的に描かれるのは「精神的に全く成長しない帆高」です。①でも触れた通り、最初から帆高は

徹底的に自分勝手なキャラクターとして描かれます。そしてその身勝手さが成長することはありません。この成長していないことを決定づける場面が、

2発目の発砲

です。

1発目の発砲後、あれだけヒナちゃんにブチギレられたにもかかわらず、再び自分の身勝手を通すために帆高は再び発砲します。最初の発砲と同じことを繰り返し、ヒナとの出会いによって帆高に成長がなかったことを決定づけます。このシーンは、視聴中も強い違和感をを覚えました。

 

 

違和感の落とし所

では何故こんな粗が散見されるのでしょうか。さすがにこのレベルの映画でこんな粗が残るはずがないのです。だって、家出少年の家出の理由なんて5分もあれば語るのは難しくないし、そこさえはっきりすればグッと帆高は身近なキャラクターになり得るはずです。2回目の発砲のシーンだって、一度は銃を拾うも葛藤の末、それを捨て熱い演説でみんなを動かせば彼のこの物語を通しての成長は決定的なものになり、最後のカタルシスも大きなものになったはず。先に挙げた問題点はこんなにも簡単に解決するのにしなかった。何か真意があるはずだ、と。そこで考えました。

 

結論から言えば、

自分勝手な主人公、成長のしない主人公こそがこの映画の描きたかったもの

なのではないでしょうか。

エゴイズムに突き動かされる人間こそが、この映画描きたかったものだったとすればかなり合点が行きます。周りを見渡せば、自分のこれまでを振り返れば、むしろ非合理的とも言えるエゴに突き動かされる人間こそがリアルなのです。自分の行動も他人に理解されることも少ないし、周りの人々の行動だって理解できることの方が少ないでしょう。汚い東京、キャッチの声、バニラのトラック、そして緻密なまでに書き込まれる背景が土台を作る現実味は、この身勝手な人間の現実味に結びつけるための要素だったのかとさえ思います。人間考えている以上にいざ合理的な判断を下すことは難しいし、人は簡単には変わらない。それこそがリアルなのかなと感じました。

ラストについては追記予定

 

蛇足

もう少し、Twitterで散見される意見に習って卑近な例え方をすると

他人のやってるギャルゲー(ノベルゲー)を見せられている

というのがこの映画なんですね。そりゃアンチだって指示厨だって湧きますわ。だからみんなが幸せになれる方法はただ一つ…

 

天気の子のギャルゲーを発売する

 

当然、マルチエンディングのめちゃめちゃ分岐のあるやつ。みんなのエゴイズムで帆高を動かそう!

 

 

 

ダメですかね…

 

ではではまずはこの辺で。

反論などなど随時募集中です。また見に行って勘違いや追加あれば、追記又は新記事書きます。

そのうちプロメアについても少し書きたいなー。