ななしのはにわの雑記帳

映画やアニメの感想をつらつらと。個人的見解に基づく批判なんかもあるため注意

甘い?プロメアにおける差別描写

どうもどうも、はにわです。

今回は公開から「じみーに」議論を起こしている映画プロメアの差別描写についてまとめていきたいと思います。

劇場公開から上映が100日間突破など、劇場オリジナルアニメの中では絶大な反響の本作ですが、差別への描写に関してはなかなかに評価が分かれています。というか、ここに関しては賛否両論の「否」の声の方が大きいまであります。

ここについての私見をつらつらと。

※以下には初っ端から激烈なネタバレを含みます。未見の方は是非そのまま劇場へ見にいってください。



賛否の否とは??

この「否」の意見なんかを見たければ、
「プロメア 差別」
Twitterで検索すれば、そこそこ出てきます。

で、彼らの主張を端的にまとめると
「散々バーニッシュへの「差別」を描いたくせに、その解決をバーニッシュとプロメアの切り離し、すなわちバーニッシュというアイデンティティの喪失によって解決している。差別していた人間側の償いもなければ成長もない」
といったものになるように思われます。(この分析についての批判は甘んじて受け入れます)

私見

結論から言うと、僕の中での答えは上記のものとは異なります。
映画プロメアでは
『バーニッシュへの差別は解決していない』
これが僕の賛否の「否」への反論です。

バーニッシュ差別が未解決であることは、ラストシーンにおけるガロがリオに向けた「炎上したら消してやる」という台詞からも明らかです。大衆のバーニッシュへの差別というのは未だ残っていることを承知でした上でそれも全部背負い込むというガロの覚悟と贖罪があの台詞に詰まっているんですね。

ではなぜ、あの映画を見終わった後に「バーニッシュ差別問題は解決した」といった錯覚を起こしてしまうのでしょうか?(かくいう僕も初回はそんな錯覚に陥りました)

それはガロに変化があったからです

プロメアという映画は、「世界大炎上」であったり、「人類の救世主」であったり、「一惑星完全燃焼」であったり、とにかく扱うスケールがインフレーションしてくる映画です。(制作スタジオや製作陣の十八番なので…)ところがそんなスケールが2時間に収まるはずもないので、映画の中では
「ガロ・リオ・クレイ」の3人のミクロな関係性の中で物語が進行していきます。
せいぜい「世界」や「大衆」といったマクロなモノが顔をのぞかせるのはアバンとピザ屋のシーンぐらいのものです。

そしてその3人のミクロな関係を通して、世界や星といったマクロな規模の話を見ていくため、ガロの成長=社会の成長・更生と錯覚してしまうのです。というか、僕はそうでした。
ですから、差別に対する社会の償いや更生というのはエンドロール後の世界で成されるべきことなので、作中で描かれていなくても良い、というのが僕の考えです。

蛇足

ガロが放つ「バーニッシュも飯を食うんだな」という発言。
こちらの方が個人的には引っ掛かりを覚えました。(1回目の視聴時)
主人公であるガロが、さっきピザ屋でフリーズフォースと争ったガロが、この手の差別的な発言をし、リオに「僕たちも人間なんだぞ」とブチ切れられて即座に考えを改め、バーニッシュを守るために奔走し挙句独房にまでぶち込まれるわけです。
映画全体を通して、この「バーニッシュは飯を食うんだな」という差別的な発言がすごく浮いているような気がしてなりませんでした。
特に「ピザ屋でのバルカンとの言い争い」というこの「バーニッシュ飯発言」以前のイベントとの整合性が取れない。これが一番のモヤモヤポイント。


ただ、いざじっくり見るとそんなに破綻していない。というのが僕の結論です。
今一度あの表彰式後からのシーンを思い出して頂きたい。

バーニングレスキューの面々がピザを食べながら、
「バーニッシュは元は普通の人の突然変異、テロリストのせいで全部が悪く見られてしまう」
といった趣旨の会話を店主とします。
でも、この時ガロは特に会話に参加してないんですね。多分、勲章をもらったことに浮かれて話を聞いてません。「火があれば俺が消してやる」と市民に啖呵を切るばかりです。
きわめつけはフリーズフォースへの抗議です。よくよく会話を聞けば、ガロの主張は「親父さんまで逮捕することはないだろ」というものに終始していて、決してバーニッシュの青年を守るために立ち上がったわけではないのです。ですからガロもバーニッシュへの差別の感情を持つ人物として描かれているといっても過言ではないと言えるでしょう。ガロの生い立ちを考えれば、バーニッシュに対して大なり小なり憎しみを抱くというのはある意味人として当然ではあります。救われたことにおもきを置き、復讐ではなく、人を救いたいという気持ちをメインの生きる理由にできたガロはやはりすごい人物なのですが。

ではなぜ、リオからの一言で心変わりできたのか。

それは、バーニッシュも彼の救うべき「人」であることに気づいたからです。
ガロは火消しであると同時に「レスキュー隊員」です。そして彼を劇中一貫して支えるのは「人を救いたいという燃える火消し魂」
です。
そんな彼はリオに言われるあの瞬間までバーニッシュを「人」だと思っても見なかったのではないでしょうか。僕らが異国のテロリストに抱く、得体の知れない危ないやつ、そんな認識。だからこそリオのことを名前で呼ぶことはなく、「放火魔野郎」「マッドバーニッシュの親玉」などと呼び、あのシーンを境にリオの名前を呼ぶわけです。
上記のように考えると一貫したガロというキャラクター、その中で起こった転換に説明がつくような気がします。何より、壊れた独房から炎龍を見たときの「リオ…?」でめちゃくちゃ熱くなれます。

蛇足の蛇足

正直、アクション映画なので頭空っぽにして見た方がいいのはいいと思います。この記事が意義を失いますが…

蛇足の方が長くなりましたが、ここまで読んでくださった方がいらっしゃれば、お付き合い頂きありがとうございました。読みにくくて申し訳ありません。

そのうち、舞台装置としてのピザ屋について記事にできたらなーと思ってます

ほんの少し追記(2020/08/05)

最近またこの手の話が再燃していたので、思ったことを追記。
やはりあのラストに懸念を持つ方が多いようです。バーニッシュの尊厳を認めバーニッシュはバーニッシュのままで共生を図るエンドの方がよかったのではないか?と言った具合に。確かにそちらの方が差別の解消、是正というテーマから見れば綺麗なまとまりと言えるのでしょうが、やっぱり今の形で良いと僕は考えます。
確かに人間のサイドから考えればその方が纏りがいいのでしょうが、そもそも「プロメア」自体は外来の生命体であり、彼らの立場から言えば元の次元に帰れるなら帰るという方が自然の摂理なわけですね。ですからあのエンドはあの世界の自然の摂理に正直に従ったということで十分世界観としての筋が通せていると考えています。プロメアくんもおうち帰りたいでしょうし。

個人的には作品を見るときにキャラクターに関しては思想はこうあるべきとか、こう動くべき、成長するべきとか考えながらみるのですが、その世界のギミックや現象に関してはそういうものとしてみることにしています

むしろあの尺で中途半端でそれらしい差別の解決を描かなかったのは英断だったのかと思います。差別の解消を描かなかったことで、どのようにあの世界が折り合いをつけるのか、そこに想像の余地を残したのが作品の醍醐味だと思います。(あの世界のその後は相当暗いでしょうし…クレイはもちろんエリスもただじゃ済まないでしょうし…前述の通りバーニッシュへの差別も残るでしょう。そういう意味でもあのタイミングで作品を終わらせることは一つの最適解だと思います)

制作側としてもアクションムービーとして作りながらそれだけで終わらせたくないからこそ、一つの側面として差別の悲痛な描写を盛り込み民衆を通して世界を現実と地続きのものと見せました。差別がある現状・それが発生しうる素地があることを十分に視聴者に突きつけることができれば十分だと考えたのでしょう。「差別はこのようにして解消すべきだ!」ということを伝える映画ではなく、「差別は驚くほど卑近で簡単にそれらしい理由で正当化されてしまう」という現実の問題を描くことに振り切ったのでしょう。

肩入れしすぎですかね…


ではでは。